2014年1月の日記:[以前の日記]
 
 
1月24日(金)
 
 
恵比寿、アートカフェフレンズにて、大島花子さんとライブ

 2ヶ月に一度のアートカフェでの花子さんとのライブ、カヴァー曲を数曲、新たに取り入れる、ということを、毎回続けている。カヴァーというのはフシギなもので、何が「合う」のか、やってみるまでわからない。凄く合いそう、と思ったものが、意外とつまらなかったり、逆に「これはどうよ」と思ったものが、意外とイケたり、ということが、常に起こる。意外な曲が、新たな形で表現出来れば、それはその曲に新たな「命」を吹き込む、ということともなり、それこそ、やり甲斐のある「仕事」なのである。

 今回、取り上げた曲の中の「ハイライト」は、「よいとまけの唄」。美輪明宏さんの、一昨年の紅白でのこの曲のパフォーマンスは、たりぃ商業音楽全盛の現代への、前世紀からの「鉄槌」のように僕には聞こえたのだが、これを花子さんがやるとどうなるのか。こういうテーマを振られると、僕は「燃える」のである。出来映えについての評価は、本日のお客様にお任せするが、我々的には、レパートリーとして「残った」感、アリアリ。
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1月23日(木)
 
 
名古屋ブルーノートにて、EPO Sacred Note 〜神聖な覚え書き〜」Special guest 鈴木重子

 リハ終了後、楽屋に戻ってきたら、いきなり楽屋にひつまぶしの差し入れ。僕については、テビチのハナシばかりされる傾向があるか、実は、ウナギも大好きなのであって、そのへん、皆さま、今後ともよろしくお願いいたします。あと、おいしい日本酒もね。ちなみに洋菓子も好きよ♡

 今回メンバーについては、EPOさんのアクアノームの抜粋メンバーであると同時に、重子さんのサポートメンバーとしても100パーセントかぶっていたワケで、フシギな「複合メンバー」感があって、おもしろかった。
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1月22日(水)
 
 
麻布のスタジオで、純名里沙さんとデュオレコーディング

デュオ1年を越えたところで、一度音を録ってみよう、ということで、レパートリーの中から3曲ピックアップして、レコーディング。
一番始めに、一昨年の「ささごはん」のイベントにゲストで来ていただいて以来、1年ちょっとの間に、多分7〜8回ライブをご一緒させていただいたのだが、息の合い具合は、とても、そんな少ない機会で作れるレベルではないカンジも。ライブの回数に比べて、妙に沢山飲んだからかな。やっぱり飲むのは大事だな。
1390412890.jpeg 左のむじなのような方は、ショーロクラブの初代プロデューサーK氏。今回のレコーディングでお世話になりました。

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1月20日(月)
 
 

23日EPOブルーノート名古屋のリハ

 アクアノームのピックアップメンバー+ゲストに鈴木重子さん、という、なかなか珍しい組み合わせ。組み合わせとしては珍しいのだが、個々同士は今までも、それぞれいるいろと活動をともにしてる、という、初めての組み合わせなのに、「みんな親しい」というフシギな、編成である。
 ざくざくとリハを消化。終了後はスタジオの隣のイタリアンで、再びざくざくと酒食を消化。
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1月19日(日)
 
 
長崎シビックホールにて、大島花子さんライブ

 昼は子供達向けのライブ、夕方は大人向け、というダブルヘッダー。「子供向けライブ」というのは、結構苦手感を持っている歌手が多いのではないかと密かに思っているのだが、花子さんは「お手の物」でした。なんか保母さんのように子供を手玉にとってました。

 夕方の部では、一転、昨日に続いて涙を流されるお客様続出の、力のあるライブを。一枚のハンカチをお互いに譲り合いながら涙をふかれていたご夫婦が、僕的には、印象に残りました。

 終了後は、速攻で空港へ。短い長崎滞在だったけど、印象、深し。きっとまたお世話になることになるな、これは。今後ともよろしくお願いいたします。
 
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1月18日(土)
 
 
大村市篠原クリニックにて、大島花子さんコンサート

 短くもないプロ活動の間、日本国内は、相当くまなく訪れているが、実は行っていない最後の県が、長崎だった。今回、晴れて「長崎処女?」を卒業出来ることに。

到着したとたん、主催者に連れて行っていただいたのは、大村市から遠く離れた長崎市茂木の「潮見崎観音」。もろもろの霊験のある観音様、とのことで、まずは「初長崎」のお礼と、家内安全商売繁盛をお祈りさせていただく。

 会場はスキンケアの専門病院のラウンジのようなところ(かな?)。広くも無いスペースにぎっしりのお客さんに来ていただき、いいカンジでした。終了後、長崎市内に戻り、地元の皆さんと交歓。ワイン、料理、美味し。長崎の皆さん、こゆし。
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1390410642.jpeg うわさの佐世保バーガー。でかい。

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1月15日(水)
 
 
1/15ホテルグランヴィア京都にて、鈴木重子さんと企業イベント出演

 リハを除けば、今日が「仕事始め」。例年1月は、1年おきぐらいに、ゆったりしたスケジュールなったりするのだが、今年は特に、ノンビリしている。自由業者としては、あんまり喜んでもいられないんだけど、まあ、やることはいろいろあります。

 グランヴィア京都は、京都駅の駅ビルの中のホテル。控え室にあてがっていただいた部屋からは、今まで見たことの無い位置からの京都の長めを楽しむことが出来た。

 お招きいただいた「敷島住宅」さんは、昨年重子さんとコーコーヤで音楽をやらせていただいたCMの会社(関西地区で現在もON AIR中)。ちょうど社員の方同士の社内結婚の発表などもあり、終始なごやかな雰囲気どしたえ。
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1月5日(日)
 
 
NO-RIO MEMORIAL @Praça Onze


 80年代中盤にはプラッサオンゼのハコバン「オス・パゴデイロス・ダ・プラッサ」のフロントマン(Vo Perc)として、また88年からジョゼ・ピニェイロ&BOTOのメンバーとして、活動を共にした舩見則夫(旧姓:梶川)が、10月31日の早朝、亡くなった。(57歳)

 ノリオについては、いろいろ思い出が深く、恐らく共演メンバー達の中でも、僕が一番公私にわたってつきあいが深かったのではないかと思う。彼との思い出を、ちょっとばかり書き残しておきたい。長いたいくつな文章になるかもしれません。ごめんなさい。



 ノリオとの出会いの経緯は、83年にブラジル修行に出た井上満さんが、ナニワエキスプレスを抜けてブラジルでパゴーヂ修行をしていたノリオをスカウト。84年の3月から、青山プラッサオンゼのハコバンに、一緒に入った、という流れであった。当時のメンバーは,他に 岡部洋一(Perc) 佐藤元昭(B)、後には服部正美も関わるようになった。(以上、以降敬称略)

 その後、僕は2年弱このグループにいて、ショーロをやりたくなって脱退。しばらく売れないギタリストを日本で続け、結局売れないままだったので、もう音楽活動をやめるつもりで、リオに旅立ち、そこで、先に行っていたノリオと再会した。

 彼は、大変マイペースというか、場合によっては無礼とも思えるほどに、社会のルールに対して傍若無人に対しているようにも見えたが、つきあっていくうちに、自分自身が決めたルールに対しては、もの凄く順法精神旺盛であることが、わかってきた。人に対しても、まっすぐ。つまり「芯」は、ぶれない、信用の出来るニンゲン、と見た。

 で、リオでの再会の時のハナシ。当時、殆どのブラジル大好き日本人達が、ブラジルについたとたん、「ここはブラジルだから」という理由のもと、急に普段の価値観と違う生活行動を取る、ということを散々見たが、ノリオは、アッパレ、何も変わらないのでであった。「あ、ノリオ、凄い」と、今更のように思ったのを覚えている。で、彼は、右も左もわからない僕をオンボロバイクの荷台に乗せて,レブロン、イパネマ、コパカバーナ、ボタフォーゴの海岸沿いの大通りを疾走。セントロの安ホテルまで送り届けてくれて、ついでにホテル近くの大衆食堂で、そういう場所での食事の頼み方を伝授してくれた。

 まったくアクティヴなタチでない僕はバイクにも乗ったことが無かったので、ノリオの背中にしがみつきながら、目に飛び込んでくる、前後左右を流れる海岸の紐ビキニのねーちゃんやらパォン・ジ・アスーカやらコルコバードのキリスト像やらの「映画の中の世界」のような風景に、ちょっと圧倒されてしまい、僕としたことが、せっかく連れて行かれた大衆食堂では、頼んだサラダも鶏も、殆どノドを通らなかった。(数週間後には、すべて「おかわり」出来るほどになっていた。)(更に言うと、その、乗せてもらったバイクの荷台、老朽化していて、そのことがあった数ヶ月後、何も乗せてないのに、いきなり外れ落ちた。ブラジルってコワイ。)まあ、今にして思えば、手っ取り早くリオ観光をさせてくれて、ついでに明日からの生活に一番必要なことの伝授をしてくれたワケであって、全く「無駄なくありがたい」時間を過ごさせてくれたわけである。

 そして、ホテルにとどまって数日が過ぎた頃に、プラッサのハコ時代にナラ・レオンと来日したカメラータ・カリオカのギタリスト、マウリシオ・カヒーリョから「そんな所にいるのはやめて、うちに住まないか」との、有り難すぎるオファーを受けた。ところが、小心かつ引っ込み思案な僕は、こんな有り難いオファーにも「ポル語もしゃべれないし、人のウチに居候するのも苦手だし・・」と、ぐずぐずと思い悩んでしまった。そのとき、「絶対行くべきだ。こんなチャンスは無い」と、強く背中を押してくれたのがノリオだった。

 今まで生きてきて、いろんな人にいろんなアドヴァイスを受けたけど、あの時のノリオのアドヴァイス程、自分にとって「プラス」になったものは無かったと断言できる。今に至るまでどうにか音楽活動を続けて行けている理由は、マウリシオの家での数ヶ月の経験を抜きには語れない。その経験は、ノリオあってのものであった。

 数ヶ月後、そのマウリシオと、バンドリンのペドロ・アモリンと、ノリオ、僕の4人でリオの宮殿の中のホールでコンサートをやった後、僕らは、相次いで日本に戻ってきた。まもなくジョゼ・ピニェイロと知り合い、ノリオや秋岡欧を誘って「Ze Pinheiro & Boto」を結成。このグループはジョゼがブラジルに帰国してしまった後も、時々日本に戻ってくるタイミングで、メンバーを増殖させつつライブを継続。既に定職を持って音楽の一線を退いたノリオも、このグループの時だけは万障繰り合わせて、パンデイロを抱えてやってきた。最後に会ったのも、多分「Ze Pinheiro & Boto」の最後のライブの時だったと思う。(ちなみに、このグループ、まだ解散してません。「最近やってない」だけです。)

 彼自身のハナシによれば、その最後のライブの頃、既に呼吸器に異常を感じていたそうだが、この秋に久しぶりに連絡した時は、もう仕事の出来ない状況になっていた。とは言え、ノリオらしい簡潔な文章で病気の経緯を説明するメールが届き、まあともかく会おうや、ということになり、会う日にちも決めたのだが、結局、その日を迎える前に、さっさと逝ってしまった。会えなかったのは、そういう巡り合わせだったと思うしか無い、というのが、僕の(そしてたぶんノリオも)考え方なので、残念、とか、そういう言葉は使う気は無いけれど、無常であるな、と思う。出会いとか別れとかというものは、そういうものなんですね。
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1388944676.jpeg 会は大盛況。懐かしいメンバーと昔話でもりあがった。森本タケルさんのカルトーラ、素晴らしかった。BOTOでの演奏も久しぶり。

1388944677.jpeg 昔話以外の話題の殆どは、痛風、リウマチ、介護、脱毛。

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1月1日(水)
 
 
あけましておめでとうございます。
本年もよろしく願いいたします。

ここ数年続けていた新年のスローガン「少ない仕事で高収入」は、なんだかぱっとしない結果を生んでいるカンジがします。何か、考え方に問題があったのかもしれません。
なので、今年のスローガンは、ずばり「清貧」で行きたい。ささやかに、清貧に甘んじ、ささやかに、音楽に集中する。美しく生きたい。ハラの脂肪も少しは落としたい。抜け毛も、止めたい。
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