1月5日(日)
NO-RIO MEMORIAL @Praça Onze
80年代中盤にはプラッサオンゼのハコバン「オス・パゴデイロス・ダ・プラッサ」のフロントマン(Vo Perc)として、また88年からジョゼ・ピニェイロ&BOTOのメンバーとして、活動を共にした舩見則夫(旧姓:梶川)が、10月31日の早朝、亡くなった。(57歳)
ノリオについては、いろいろ思い出が深く、恐らく共演メンバー達の中でも、僕が一番公私にわたってつきあいが深かったのではないかと思う。彼との思い出を、ちょっとばかり書き残しておきたい。長いたいくつな文章になるかもしれません。ごめんなさい。
ノリオとの出会いの経緯は、83年にブラジル修行に出た井上満さんが、ナニワエキスプレスを抜けてブラジルでパゴーヂ修行をしていたノリオをスカウト。84年の3月から、青山プラッサオンゼのハコバンに、一緒に入った、という流れであった。当時のメンバーは,他に 岡部洋一(Perc) 佐藤元昭(B)、後には服部正美も関わるようになった。(以上、以降敬称略)
その後、僕は2年弱このグループにいて、ショーロをやりたくなって脱退。しばらく売れないギタリストを日本で続け、結局売れないままだったので、もう音楽活動をやめるつもりで、リオに旅立ち、そこで、先に行っていたノリオと再会した。
彼は、大変マイペースというか、場合によっては無礼とも思えるほどに、社会のルールに対して傍若無人に対しているようにも見えたが、つきあっていくうちに、自分自身が決めたルールに対しては、もの凄く順法精神旺盛であることが、わかってきた。人に対しても、まっすぐ。つまり「芯」は、ぶれない、信用の出来るニンゲン、と見た。
で、リオでの再会の時のハナシ。当時、殆どのブラジル大好き日本人達が、ブラジルについたとたん、「ここはブラジルだから」という理由のもと、急に普段の価値観と違う生活行動を取る、ということを散々見たが、ノリオは、アッパレ、何も変わらないのでであった。「あ、ノリオ、凄い」と、今更のように思ったのを覚えている。で、彼は、右も左もわからない僕をオンボロバイクの荷台に乗せて,レブロン、イパネマ、コパカバーナ、ボタフォーゴの海岸沿いの大通りを疾走。セントロの安ホテルまで送り届けてくれて、ついでにホテル近くの大衆食堂で、そういう場所での食事の頼み方を伝授してくれた。
まったくアクティヴなタチでない僕はバイクにも乗ったことが無かったので、ノリオの背中にしがみつきながら、目に飛び込んでくる、前後左右を流れる海岸の紐ビキニのねーちゃんやらパォン・ジ・アスーカやらコルコバードのキリスト像やらの「映画の中の世界」のような風景に、ちょっと圧倒されてしまい、僕としたことが、せっかく連れて行かれた大衆食堂では、頼んだサラダも鶏も、殆どノドを通らなかった。(数週間後には、すべて「おかわり」出来るほどになっていた。)(更に言うと、その、乗せてもらったバイクの荷台、老朽化していて、そのことがあった数ヶ月後、何も乗せてないのに、いきなり外れ落ちた。ブラジルってコワイ。)まあ、今にして思えば、手っ取り早くリオ観光をさせてくれて、ついでに明日からの生活に一番必要なことの伝授をしてくれたワケであって、全く「無駄なくありがたい」時間を過ごさせてくれたわけである。
そして、ホテルにとどまって数日が過ぎた頃に、プラッサのハコ時代にナラ・レオンと来日したカメラータ・カリオカのギタリスト、マウリシオ・カヒーリョから「そんな所にいるのはやめて、うちに住まないか」との、有り難すぎるオファーを受けた。ところが、小心かつ引っ込み思案な僕は、こんな有り難いオファーにも「ポル語もしゃべれないし、人のウチに居候するのも苦手だし・・」と、ぐずぐずと思い悩んでしまった。そのとき、「絶対行くべきだ。こんなチャンスは無い」と、強く背中を押してくれたのがノリオだった。
今まで生きてきて、いろんな人にいろんなアドヴァイスを受けたけど、あの時のノリオのアドヴァイス程、自分にとって「プラス」になったものは無かったと断言できる。今に至るまでどうにか音楽活動を続けて行けている理由は、マウリシオの家での数ヶ月の経験を抜きには語れない。その経験は、ノリオあってのものであった。
数ヶ月後、そのマウリシオと、バンドリンのペドロ・アモリンと、ノリオ、僕の4人でリオの宮殿の中のホールでコンサートをやった後、僕らは、相次いで日本に戻ってきた。まもなくジョゼ・ピニェイロと知り合い、ノリオや秋岡欧を誘って「Ze Pinheiro & Boto」を結成。このグループはジョゼがブラジルに帰国してしまった後も、時々日本に戻ってくるタイミングで、メンバーを増殖させつつライブを継続。既に定職を持って音楽の一線を退いたノリオも、このグループの時だけは万障繰り合わせて、パンデイロを抱えてやってきた。最後に会ったのも、多分「Ze Pinheiro & Boto」の最後のライブの時だったと思う。(ちなみに、このグループ、まだ解散してません。「最近やってない」だけです。)
彼自身のハナシによれば、その最後のライブの頃、既に呼吸器に異常を感じていたそうだが、この秋に久しぶりに連絡した時は、もう仕事の出来ない状況になっていた。とは言え、ノリオらしい簡潔な文章で病気の経緯を説明するメールが届き、まあともかく会おうや、ということになり、会う日にちも決めたのだが、結局、その日を迎える前に、さっさと逝ってしまった。会えなかったのは、そういう巡り合わせだったと思うしか無い、というのが、僕の(そしてたぶんノリオも)考え方なので、残念、とか、そういう言葉は使う気は無いけれど、無常であるな、と思う。出会いとか別れとかというものは、そういうものなんですね。
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会は大盛況。懐かしいメンバーと昔話でもりあがった。森本タケルさんのカルトーラ、素晴らしかった。BOTOでの演奏も久しぶり。 |
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昔話以外の話題の殆どは、痛風、リウマチ、介護、脱毛。 |
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